唐津焼 辞典
唐津とは「唐」へ至る「津」、すなわち「中国へ続く港」という意味であり、室町時代から
桃山時代にかけて壺、甕、皿、徳利などの日用品を多く産出したのが始まりといわれる。
■歴史■
唐津は古くから対外交易拠点であったため、安土桃山時代頃から陶器の技術が伝えられて
いたといわれ、現在も佐賀県の岸岳諸窯など至る所に窯場跡が点在する。
唐津焼が本格的に始まったのは、文禄・慶長の役の頃からといわれ、鍋島氏によって大量
に連行された陶工たちによって、李朝磁器の技術と築窯技術が持ち込まれたのが契機であ
る。
草創期は食器や甕など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった
質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるように
なった。
西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになり、とりわけ桃山時代
には茶の湯の名品として知られ、「一楽二萩三唐津」などと格付けされた。
江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問
題となった。鍋島藩は各地の窯場が燃料の薪を切り出すために山が荒れているという理由
で、藩内の窯場の整理、統合を強行した。朝鮮陶工を除く日本人陶工824 人を追放し、伊万
里地域の窯場4カ所すべてと有田地域の窯場7カ所を取り潰し、有田地域東部の13カ所の窯
場に統合した。それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの
窯元が取り壊された。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くため
の御用窯として存続した。唐津藩領内にはいくつかの窯があったが、椎ノ峯窯出身の4代中
里太郎右衛門は坊主町御用窯を開いた。後に、享保19年、藩命により町田唐人町に御茶碗
窯として窯を移し唐津焼は茶陶を焼く御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多
数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。
明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭も
あって、多くの窯元が廃窯となった。後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古
唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。
現在は伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりと、時代の移り変わりの中
で、着実な歩みを遂げている。
注)唐津焼の発祥についてはいろいろな説がありますが、ここでは一番一般的なものを紹介
しました。
■唐津焼の種類■
無地唐津、絵唐津、朝鮮唐津、斑唐津、粉引唐津、奥高麗、彫唐津、三島唐津、青唐津 、黄
唐津 、彫唐津、刷毛目唐津 、櫛目唐津 など
■登り窯■
斜面を利用した窯の形態のことを「登り窯」と呼びます。
その中でも、岸岳地区を中心に割竹形連房式登窯があり、特徴として側壁が直線的で一基
の窯の内部が複数の焼成室に分割されています。焼成室間の段差がすくなく、通焔孔は、粘
土を巻いた柱を使用したり、石を四角柱状に加工して柱にしているものが多くあります。
流石窯もこの割竹形連房式登り窯で焼成しています。 窯を見る
歴史
16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵時に鍋島氏によって大量に連行された陶工たちによって、
李朝磁器の技術と築窯技術が持ち込まれ唐津焼が盛んになりました。そのときに登り窯も伝
わったのではないかと考えられています。
佐賀県東松浦郡北波多村の岸岳山麓には、飯洞甕上窯、飯洞甕下窯、帆柱窯、岸岳皿屋
窯などの古窯が点在しています。その中でも飯洞甕下窯は、北朝鮮系の割竹式登窯の様式
であり、現存する登窯としては日本最古のもので、佐賀県の史跡指定を受けています。
岸岳古窯群では、わら灰釉、鉄釉、長石釉などの高度な作陶技術が使われていました。生産
されていたのは生活陶器でしたが、一部の茶器も焼かれていたそうです。これらの作品を岸
岳古唐津と称しています。
構造
窯の内部はいくつかの焼成室に分かれており、各焼成室はもっとも下が「大口」と呼ばれる燃
焼室(窯口)であり、傾斜に沿って上にいくつかの焼成室が続き、それらが繋がった細長い形
態をしています。最上部の部屋の先には煙道、そして煙突へと続いていて、さらに各焼成室
には薪を投入するための「小口」と呼ばれる小さな穴が設けられています。
燃料
燃料には薪が主に使われ、火のあたり加減と灰のかかり具合によって作者も予期しない模様
や色に焼きあがるため、味があリ、同じものは決して二つとしてできないといわれています。
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