【ホシクズ】
その1
 久しぶりタミオを聞いている。スピーカーの位置を変えただけで音がよくなった。なんとなくそのようにように思えた。思えただけかもしれない。金は無いが悩みもない。金があるが悩みがあるのとどっちがいいのだろう。寝ころんで、聴くのも半分で天井を見ている。
 僕は大学生である。同級生はせっせとリクルートスーツを身に付けて会社巡りである。
 「ジュンノスケは、それでいいと思ってるの。今の日本不況だよ。落ちこぼれてしまうよ。まあ、そう言うまでもなく、お前落ちこぼれているけど」
 ジュンノスケ(純之助)は僕の名前である。4年の僕に、そう、何にもしない僕に周りはそのように言うのである。
 「お前の存在は、存在だけで人助けだよね。お前みたいな奴がいるから、世の中は平和というか、ホンワカしているというか、誰もが競争じゃ息苦しいから、お前の存在は大切なんだよ。名前にも助があるし、生まれながらの人助けなんだよね。キミは」
 僕は彼の言うことがわからないではない。最初から競争しないで、「一抜けた」のような僕の存在は、競争の論理からいえば相手側にとっていいことなのだろう。
慌てることもないし、ぼんやりと猶予された時間を愉しむこともいいじゃないかと思う。
 テーブルには、開かない郵便物の山である。僕のようなグウタラにも就職案内がひっきりなしに来る。興味もないからそのままにしている。なにげなく、そう、物事は何気ないことから始まるように思う。僕はその案内郵便をながめていた。
 高収入アルバイト・・・。その文字が気になった。僕は、はっきり言うが、金に困っていた。困っていたが、それを自ら解決しようとは思っていなかった。金が無いのは我慢の問題であり、それは悩みとは別次元だった。そのように思っていた。
 「高収入アルバイトか。まあ、やってみるか」
 封を開け中を見た。
 【あなたの時間と身体を少しだけください】これがキャッチコピーだろうか。
 イカガワシイがそれでも、何となくひかれるものがあった。
 「ちょっと、やってみるか」と僕はつぶやいた。
 そのちょっとしたことが、多くの場合、そのちょっとしたことで人間の運命は変わっていくのだろう。それは、僕の場合にも当てはまることだった。僕は、すでに、高収入のアルバイトをすることに決めていた。

その2
 高収入アルバイトは、難しいことではなかった。1週間から3ヶ月くらい、新薬の効果や副作用を調べるためのものであった。薬を飲んで血液検査やその他の検査を行って、薬の効果をみるものである。
 案内のチラシには、**医学研究所という名前があった。明日が面談で、申し込みの方は電話で連絡して下さいとのことであった。さっそく連絡してみる。
「もしもし」
「もしもし、こちらは**医学研究所です」
「アルバイトのことで電話しているのですが」
「はい、係と交代します。しばらくお待ち下さい」
「もしもし、こちらはアルバイト担当の瀬古井(セコイ)です」
「それでは、ご氏名とご年齢をお願いします」
「**純之助、22歳」
「学生さんですか」
「・・・フリーターです」
「そうですか。明日、10時に**医学研究所までおいで下さい」
「よろしくお願いします」
 学生と尋ねられて、つい、フリーターと回答してしまった。
「とりあえず、明日行ってみるか」とぼそぼそとつぶやいた。
 チャイムが鳴った。同時にドアが開いた。麻生がやってきた。麻生は同じ学部の同級生である。
 「ホシクズ、就職内定したぜ」麻生は、いかにも見下したように僕に言った。
「2流どころの地方銀行だけど、不良債権はあまり持ってないし、経営基盤もしっかりしてるから、まあ、俺としては上出来のほうだろう」
「テストの時は、ホシクズのノートコピーで合格したようなものだから、俺の就職決定は、お前のお陰みたいなものさ。就職決定ということで、ホシクズ、今日、お前のおごりで居酒屋でも行こうぜ」
 ホシクズは僕のことで、ジュンノスケという奴もいる。頼みごとやノートコピーの時はジュンノスケで、それ以外の時はホシクズである。かといって成績がよいわけではない。講義には欠かさず出席するしノートもとるが成績は芳しくない。
 どうして、僕がホシクズか知りたい。
 僕は、真面目であるけれども要領が悪いしタイミングも悪い。合コンの時は駆り出されるが、それは主役を引き立たせる脇役としてだけである。それだけの意味である。だから、陰で「あいつクズだよな」と悪口をたたかれていた。さすがに、クズでは悪いだろうということで、さらに、僕が童貞ということで珍しい奴という意味を込めて【ホシクズ】となったわけである。
「めでたいことだから、パットいこうか。麻生」
「ホシクズ、お前善い奴だよな。おごりでお願いね」
「まあ・・・、バイトもすることだし、今日は僕のおごりで祝おう」
僕らは居酒屋に向かった。ポケットの中で、僕は今月最後の1万円を握りしめていた。

その3
 居酒屋は思ったより空いていた。僕と麻生はテーブル席がとれた。
「乾杯、おめでとう」
「ジュンノスケ、サンキュー、これもお前のお陰だよ。けっこう試験前にはお前のさ、講義ノート見せてもらったというか、コピーさせてもらったしね。でもさ、就職決まったら、なんとなくさびしいというか、学生も卒業だし、バカもやれなくなりしね。イチオウ社会人ということでさ。ネクタイにスーツで個性を殺して生きるというのもハンパじゃないよね。その点、考えてみれば、ホシクズは自由でいいよね。お前の生き方もけっこう愉しいかもしれない」
「麻生、ホントにそう思っている。僕はさ、どちらかというと要領悪くてさ、別に自分の意志でこの【自由みたいなもの】を選択してんじゃないように思う。クボミの底に玉が吸い込まれるようにただなだらかに落下しているだけで、自分の意志ではないように思う。そりゃ、麻生みたいにさ、就職でもしたほうが母は喜ぶだろうけど、それが、思うようにできないのさ。それだけさ。それが周りから見ると自由に振る舞っているように見えるだけだよ。僕にはこれといった意志はないんだ。ないんだよ」
「俺、お前に謝ることあるんだ。まあ、この際だから白状するけど」
「なんだよ、急に白状なんて・・・。麻生らしくないよ」
「ジュンノスケ、すまん。お前が、あんまり善いヤツだからさ。言うけど。大学2年のとき、クラスで合コンしたことあったよな。あの時から、俺が半年ほどつきあったアヤノちゃん覚えている。実はさ、俺の好みだったから、あの後、友人から携帯番号を教えてもらって、連絡したんだ、あって欲しいとね。そしたら、アヤノも乗り気で、いい感じなんて思ったけどさ」
 麻生は残っていた生ビールをそこで一息に飲んだ。
「そしたらさ、会って話したら、ホシクズのことが好きだなんて言い出すんだよ。まいったよ。そこで、つきあってもらえるか伝言頼まれたのさ」
「そんな話聞いてないぜ」僕は、顔を赤らめて言った。
「ゴメン・ゴメン、そこなんだよ。問題は。ホシクズに言わなかったわけ。それで、アヤノにはお前がその気がないということ言っちゃった・・・だよね。スマン。考えてみれば、あれって、お前の童貞喪失の最大のチャンスだったように思うけど・・・、ジュンノスケ、スマン」
「それで、フラレ気分のアヤノちゃんの相談気分にじょうじて、俺がさ、いただいたというわけなのね。そういうわけ」
 僕は妙に冷静に聞いていた。アヤノはけっこう人気のある女の子で、僕も少なからず好意を抱いていた。
「そんなこともあったの・・・。もう、過去のことだからいいよ。」
「ジュンノスケ、その言葉を聞きたかったのよね。僕もイチオウ良心というものがあるからさ、胸のつかえみたいなものが・・・なんていうか・・・わだかまったという感じで・・・、でも、今の言葉聞いてすっきりしたよ」
麻生は、生ビールを勢いよく追加した。
「もう、俺も社会人になるわけだし、バカもできないからさ、残りの学生生活は出会い系サイトで高校生でも見つけて遊ぼうかな」
 僕は、こいつのバカさかげんにげんなりしたが、こんな男に半年もつきあったアヤノにも幻滅した。
「それでさ、お前、その気があるならさ。アヤノにホシクズのこと紹介しようか。今は、俺は切れているけど携帯番号なら知ってるからさ。あいつ、最近の私生活が荒れているみたいだし。ホシクズ、癒してみないアヤノののこと」
「明日からバイトだし、その気になれないな」
「そうだよな、気持ちわかる。ちょっと言っただけだからさ、気にしないで」
 僕は、麻生の告白はどうでもよかった。しかし、同時に僕の心にある欠片を感じた。それは蠢きながら、ブラックホールのように周りのものを吸い取った。僕は生きることの意味の不確定さを感じ、自分の存在をどこか客観的にとらえる目を感じていた。
ふと「麻生、お前を殺してやる」とつぶやいた。
もちろん、麻生には聞こえないように。

その4
 人を殺すという感覚はどのようなものであろうか。言葉で「殺す」と発してもそれは、単に脅かしであったり、その場だけの短絡的な思いこみかもしれない。人を殺すという思いがどれだけのリアリティーを持ちえるのか。僕にはわからなかった。
 僕が麻生を殺そうと思ったことは、一瞬のことであった。それは実行に移すほどのエネルギーを持ちえるものではない。意識の断片はあったけれどもそれはフォルムにはなりえなかった。僕の意識はナイフのように鋭利に尖ることもなく、それは平坦なひらめきに近いものであった。
 麻生はおむろに言った。「これからさヘルスに行こうか」
「俺、金持ってないぜ」
「ホシクズ お前童貞だろう。ヘルスでは本番できないけどさ。お前に、俺なりの負い目もあるからさ。なんていうか、俺の行きつけのヘルスでさ。放出してもらいたいのさ。わかる?僕のマゴコロ。わかってくれる」
 麻生は、僕の耳元でささやく、まるで、そのまま僕の頬にキスするように。
 「金なら俺が貸しとくよ。心配するなよ」
 居酒屋を出た僕と麻生は、ビルの谷間の路地裏を通り、ビルの3階のヘルスに行った。
 麻生はなじみなのだろう。ボーイと話して、指名をしていた。
「ホシクズ、どうする。写真見て指名する」
「・・・・・」
「ホシクズ、ここで黙って暗い雰囲気を出すのが嫌われるんだよ。だからクズといわれるんだよ。ここは男らしくさ、きっぱり言えよ」
「じゃ、時間待ちのない女の子で・・・」
「ホシクズ、それでいいわけね。それじゃ、俺、20分待ちだからさ、終わったら帰る、それとも待ってる」
「帰ろうかな・・・」
「帰るわけね、わかった。それじゃ、ここでお別れというわけで、今日はありがとね。お前も頑張れよ。ここ割り勘だから、あとで請求するから、そこんとこよろしくね」
 僕はボーイに誘導され、暗い店内に入る。
 僕の気持ち暗かった。それはこの店内の暗さの何倍も暗かった。
 「ランでーーす。ヨロシクね」
 女の子が僕の腕の隙間に手を滑り込ませた。
 「よろしく。それでさ・・・キミ、人を殺したいと思ったことある?」
 彼女の動きが止まった。僕の目を見て「お客さん、冗談よしてね。初対面でそんなこと言わないで」その後、僕を誘導しながら
「ランとラブラブしましょう。ネっ」と笑顔を向けた。

その5
 僕は薄暗闇の半分だけの個室に誘導された。
「ここのベッドで立ち上がったら上半身見えそうだね」と僕は言った。
「それね、色々ややこしい法律があって、時々警察の検査があって、シドウされるらいしいよ。詳しい事知らないけど」
 ランは20歳前後だろうか、髪は茶色に染めていた。小顔でいつもにこにこしている。
「もうどれくらいなるの」
「半年くらいかな」
僕は、彼女がこの質問にはいつも半年と答えるのだろうと思った。
「半年か・・・」
「楽しい、この仕事」
「うん、やさしい人に会えると楽しいけど、乱暴な人や見下したような人、命令口調の人は苦手だな」
 彼女は、発射させるための下準備をしている。オシボリを一つひとつ手に取って、それを、違った形に折っている。僕の精子はそのオシボリに吸い込まれ、多くの客の精子を吸い込んだオシボリと混じって大きなビニール袋にまとめられ、路地の角に置かれるのだろう。僕はふと、浮遊する精子を思い浮かべ、それが下水から川や海に流れ出すようすを考えた。

「ランちゃんは、どうしてこの業界に入ったの」などという間抜けな質問をした。
「ランのお父さんは、銀行員だったの。それが、銀行やばくなって、倒産したわけ。それで、お客からけっこうクレームついて、この土地にいられなくなって、私だけ残して蒸発したのよ。お母さんも一緒に居なくなった。それで、この業界にデビューしたわけ」
「ランちゃんは銀行員の娘なんだ」
「そう・・・、でも、過去形ね。過去はいいじゃない」
 僕は少しだけランという女に欲情した。それは、彼女の背負った不幸に欲情した。不幸な女を抱くことに欲情した。

「あなたの名前は何ていうの」
「僕はホシクズ」
「ホシクズ・・・、変わった名前ね」
「僕はホシクズ、クズだけどランちゃんを照らすよ」
「面白い人。ありがとう。・・・さあ、そろそろ服を脱いでね」

 僕は上着をとって、順番に脱いで裸になった。彼女は入念に僕自信と手と胸をふきとった。
「さあ、始めるね」

 僕はまったく別のことを考えていた。僕はどうしてここにいるのだろう。彼女の茶色の髪をなでてみた。すこしざらついた感じがした。
「髪が痛んでるね」
「それって、染めるのが悪いんだよね」
 僕は、意識と別に僕のモノは欲情していた。僕の上にいる不幸を詰め込んだ女に欲情していた。
「もうビンビンだよ」
「僕もこれくらいビンビンだといいけど」
「ホシクズさん、不幸な女好き?」
「どうして、そんなこと聞くの」
「なんとなく・・・」
「なんとなく・・・、同じ匂いがしたのランとホシクズさん」
「同じ匂い?」

 都会の雑踏の一隅の雑居ビルの3階の薄暗闇に、あまり幸福でもない男と女がいる。お金通してお互いを舐めあっている。
「アッ」
「どうしたの」
「胸が輝いた・・・ホシクズみたいに・・・」
「ホント」
「ウソ」

 しばらく二人は沈黙した。それから、僕はランをしっかり抱きしめた。
ランは泣いていた。僕の胸に涙がこぼれてきた。
「幸福な女より好きかもしれない。不幸な女が」僕はつぶやいた。

「ホシクズさん、ランの涙でホントにホシクズみたいに胸が輝いているよ」彼女は、少しだけほほ笑みを浮かべて言った。
僕はいとおしく思った。
暗闇に光る小さな電球に照らされて、僕の胸でランの涙はホシクズのように輝いていた。


その6
 *【星クズオトコ】のタイトルを【ホシクズ】に変えます。
 僕は彼女に身をまかせていた。
「これって、マグロオトコというんだろう」
「マグロでいいよ」
僕は目を閉じた。目の前には花畑が広がっていた。僕はどこかで交点を求める僕の意識は、花畑を突き抜けた。色々な妄想がめくるめく脳内を走りまわった。暗闇と光が交錯した。今までの中で一番強い快感が全身を突き抜けた。その後の微妙な感じは・・・。何だろう。

「ごめんね。やっちゃったよ」彼女は僕にまたがっていた。

 僕らは、そう、僕らという言い方をするが、30分ほど前には顔を見たこともなかった。すれ違ったことはあったかもしれない。それでも、お互いに意識することもなかった。そのようが僕らが、今、セックスをしていた。それは、愛情があったのか、少々の共通因数でくくられたカッコの中にくくられた文字くらいの愛情はあったかもしれない。

 僕の中から放出された精子は、薄いゴム被膜で防御されてそこから一歩も進まない。遅々として進みもない。それはゴム被膜とともに汚物として処理される。愛の放出も疑似愛の放出も自己満足の放出もすべて、僕の精子は見えない壁に押しとどめられてへなへなと腰を降ろす。

 制御不能のミサイルはどこかへ飛んでいくが、僕のモノはむざむざと僕の内心に向かってしか飛んでいかない。
「僕、童貞だった」

 彼女は、ちょっと、びっくりしたような顔をしていた。
「光太郎くんだったの」
僕は、彼女のとっさのことばに救われたのか。
「それって・・・おもしろいね」
「けっこう本読んでいるのよ。こう見えても」
彼女ははにかみながら言った。
「ごめんね。大切なもの、私のようなもので・・・知らなかった」
「でも、変だろう。僕、童貞ですがよろしくと言うのは、気にしないで、何だか雲の層を突き抜けたパイロットの気分だよ」
「何それって」
「視界が広がった感じ・・・、僕の殻が一つ壊れたような・・・、そんな感じ」

 彼女は下着を付けて、服を着だした。服といっても、ワンピースの黒の薄いスーツのようなものだった。僕も服を着た。
「これ、受け取って」
それは彼女の名刺だった。
「もう会うこともないかもしれないけど、裏に、特別に携帯の番号書いているから、気が向いたら電話して、あなたのこと気に入っちゃった」
彼女はにっこりして、僕の頬にキスした。

 腕を組んで、半分の部屋を出てドアで、僕は彼女の頬にキスをした。
「あっ、光ったよ。ホシクズ。不思議。胸でホシクズが輝いた」
「じゃ、またね」と僕は言った。

 僕には「またね」には自信がなかった。これが永遠の別れだろう。人は出会えば、別れの時が来る。それは、別れがかわいそうだからペットを飼うのが嫌いな人にも、平等にやってくる。ペットでなく、人との別れがやってくる。

 好きだろいう感情もなくお金のつながりだけで、いや、短い時間彼女を買い上げて、時には欲望という感情がなくても彼女を抱いてキスする。それに一体どのような意味があるのだろうか。彼女はそれが仕事で、僕は仕事ではない。

 いつしか、僕は暗い路地裏を出て、多くの顔を知らない人々の波にのまれて大通りを歩いていた。これらの人々が何を考えているのかはさっぱりわからない。中には僕のように、一瞬でも人を殺そうと思った人がいるかもしれない。殺意が蠢いているのかもしれない。それでも、僕は無防備に通りを歩いている。次の瞬間にナイフを突き立てられるかもしれないけど、きわめて平然に生きている。

 「世の中狂っている」と都会の一隅の闇に向かってつぶやいた。

その7

 いつもより、早く起きた。7時には目を覚ましていた。バイト先まで今日行かなくてはいけない。行かなくてもいいのだが、気持ちの上では行かなくてはと思っていた。朝飯は食べない。インスタントのコーヒーを1杯飲むだけである。まずい。まずいが飲むことにする。飲むことで、変わるべきことはない。しかし、まずいコーヒーを飲む。

 小銭を集める。何とかバイト先まで行けそうだ。バイト先と書いているが、それが決まったわけではない、だから正確にはバイトをするであろう場所と言うほうが正しい。

 ポケットにタバコ、ライター、財布を入れて出発する。十字軍の遠征隊のような活力もなく、かといって、屠殺場にひきつれられる豚の気持ちでもない。予定した行動に自分を合わせている感じで、結果に期待するのでもなく、今、金がないという現実に負うところが多い。

 地下鉄を乗り継ぎ、その研究所は下町の工場群の迷路の奥にあった。見た目は白塗りの大きめの個人病院というものであった。入り口に受付があってそこに記名する。記名が終わるころにどこからともなく男性が現れた。
「**医学研究所の瀬古井です」と男はいった。
「ホシク・・いや、**ジュンノスケといいます」
「まず、アンケートに回答して下さい。その後、第1会議室でお待ち下さい」と言って、瀬古井はどこかに消えてしまった。

 僕の前に女性が現れた。
「私は加山と申します。以下の質問にご回答ください」彼女は早口で言う。それは、決まり切ったことを何度もしてきたということがありありとわかった。
「あなたの性格は凶暴ですか、柔和ですか」
「柔和です。どのように見えますか?柔和でしょう」
「質問だけに答えて下さい」

「お酒は飲みますか」
「普通程度は飲みます」

「お酒を飲むと、人格が変わりますか」
「ほとんど変わらないと思います」

「薬物依存になったことはありますか」
「いいえ、ありません」

このような質問が続く・・・。
最後の質問です。
「あなたは童貞ですか」
「いいえ、童貞ではありません」
僕の回答に不満があるように見えた。
「それは、ナマですか」
彼女は冷静に「ナマ」と言った。
「いいえ、ナマではありません」
彼女は自信を回復したように見えた。そして、凱旋した将軍のように断言した。
「ナマでない、いわゆるゴムでのセックスでは、科学的に童貞を喪失したことにはなりません」
 科学的には・・・、僕の頭には科学的にはという言葉が響いた。さらに、彼女は付け加えた。
「あなたは、童貞です。回答を修正しておきます」

 僕は敵前逃亡の兵士のように気力はなかった。それでも、ふりしぼって言った。
「感情的にはどうでしょう」
彼女は、赤色の眼鏡をちょっと右手で触って言った。
「ここは研究所です。科学的に物事を考える場所なのです。もう少し付け加えるならば、あなたが喪失したと思ったのは錯覚的な感情です。ゴムという、最近は技術の進歩でかなり薄くなったと聞きますが、それでもあなたのモノとあなたが錯覚したアナとは厳密な意味での接触はなかったのです。それは入れたのであって、空気に出し入れしたと同程度の問題です。誤解はいけません」

 僕は敗戦濃厚であるが、戦わざるをえない兵士のような気分で言った。
「でも、感情的には喪失したのではないでしょうか。僕は、そう思っています」

彼女はとどめの毒液の最後の1滴を身体に注入するヘビのような目で言った。
「つまり、こういうことです。あなたは全てにおいて、このような錯覚と誤解を積み重ねて生きているのです。まちがってならないことは、誤解と誤解が積み重なって、プラマイゼロのようなことは起こりません。万が一そのようなことがあっても、次の瞬間、限りなく真実から遠くにいることになります。あなたは童貞を喪失したのではなく、童貞を喪失したという自分を想定しただけです。それ以前とそれ以後は少しも変わっていないのです。変わったのは、変わったと思っているあなただけがいることで、事実は変わっていません」

僕は、白旗を用意しながら、最後の抵抗をこころみた。
「だから、僕は事実ではなく、そう、あなたの言っていることが正しいとしてのことですが、感情の問題を言っているのです」

何度教えても逆上がりのできない子どもを教える小学校教諭のような目の彼女が言った。
「だから、正しい感情は正しい事実認識においてのみ発生するのです。あなたの持ちえた感情、それは事実に立脚しないニセ感情にすぎないのです。海上の蜃気楼のようなものです。やがて消えるだけです、その時、多分、次のセックスで、これが本当の喪失だと置き換えるにすぎないのです。つまり、そのようなあなたを変えることができないならば、あなたはいつまでたっても童貞のままです。これは、科学的でなく、感情的にですが」

 僕は彼女の口唇を見ていた。その動きだけを見ていて、イヤラシイ妄想をした。それが僕の出来ることの唯一の反抗であった。

「ゴメンナサイ。最後の質問は私の創作でした。あなたは私たちが求めていた人物かもしれません」と彼女は言った。


その8

 アンケートというか質問の後、僕は第1会議室に通された。そこには、すでに3名の男と1名の女がいた。そこに瀬古井が現れてた。
「みなさん、今日は**医学研究所の医療ボランティアに参加してもらいありがとうございます。時々、アルバイト感覚で参加される方がいらっしゃいますが、あくまでもこの研究は医療ボランティアということでやっています。これは、あなた方が体験されたボランティア行為によって、多くの病気を抱えている人々を救うことができます。これはまさにすばらしい行為であり、献身的な行為です」

 参加者の50代の男性があくびした後に質問した。
「俺はよー、ボランティアをしに来てないわけだけど、どうなっているの」

 瀬古井は待ってたとばかりに続けた。
「いい質問です。たしかにみなさんの行為はボランティアです。しかし、ボランティアといっても、みなさんにはそれなりの健康状態を維持してもらわなければなりません。このボランティアでは、健康の維持がなされて初めて薬品の効果が判定されます。そのために、健康維持のための手当はこちらに負担させてもらいます」

 先程の男性が、目をぎらつかせて再度質問した。
「奥歯にモノの詰まったような言い方をしないで、はっきり言ってよ。健康維持手当はいくらなのよ」

「ボランティアと言えども、ここら付近ははっきりさせないといけないでしょう。皆様方には最高の健康を維持していただくために、1日当たり2万円を援助させてもらいます。交通費についても途中の不便を考えて、皆様の自宅からのタクシー料金で支払います」

「皆様にアンケートを回答してもらいましたが、こちら側で、それぞれに応じたコースを考えています。それは、個別にこれから相談させていただきます」

「何か質問はありませんか」
例の男が質問した。「もし、いわゆるボランティアで死んでしまったりとかしたとき、保障はあるの」

瀬古井はするどい目つきで言った。「これはあくまでもボランティアです。この原則を間違えないで下さい。しかし、我が研究室が行うボランティア行為によって死亡することは考えられません。しかし、万が一にでもそのようなことがあった場合については、独自の保険がありませんので心配いりません」

 説明会が終わって、僕は瀬古井のそばに寄った。
「瀬古井さん、ちょっといいですか」
「ああ、いいとも、これはキミたちのための説明会なのだから」
「あの加山という女性のアンケートの言葉がきつかったのですが」

 瀬古井はしばらく僕を見つめて言った。「それは、彼女はTPOが苦手というか、いつも科学的な思考をしてしまうんです。悪気は無いけど、冷たく感じでしょうね。問題はアンケート対象者の好き嫌いではない。彼女にとって科学的か非科学的かが問題であるかなんです。非科学的な事象に対して、彼女はつきつめます。科学的な判断しか認めないタイプなのです」

瀬古井は壁の時計を見て言った。「後、30分後にキミの個人面接だ」
僕は去り行く瀬古井の後ろ姿を眺めながら、何か奇妙な予感を感じていた。


その9

 第1会議室で面接を待っているとき、僕はランのことを考えていた。
 ・・・・・・
「光太郎くんだったの」
僕は、彼女のとっさのことばに救われたのか。
「それって・・・おもしろいね」
「けっこう本読んでいるのよ。こう見えても」
彼女ははにかみながら言った。
「ごめんね。大切なもの、私のようなもので・・・知らなかった」
「でも、変だろう。僕、童貞ですがよろしくと言うのは、気にしないで、何だか雲の層を突き抜けたパイロットの気分だよ」
「何それって」
「視界が広がった感じ・・・、僕の殻が一つ壊れたような・・・、そんな感じ」・・・・・・・・

 ぼんやりといだくランのイメージとさきほどの加山女史とは対照的である。僕にはどちらかというとランの方が好きだなと思った。

 僕の名前が呼ばれた。僕は第2会議室に呼ばれた。そこは、第1会議室の1/3程の広さであった。そこには加山さんが座っていた。彼女は、僕が座るやいなや言った。「瀬古井さんから聞きました。先程の私の言葉があなたを傷つけた点があったようです。そうであるならば、おわびをします」
「傷ついたということではありませんから、気にしないで下さい」
「そうですか、そうであればいいのですが。私はつい、自分の物差で断定的に言うことがあります。欠点の一つだと存じています」

「それでは、あなたの医療ボランティアについての説明を行います。極めて簡単なことです。毎日、朝の10時に来てもらい、お薬を1錠飲んでもらいます。その後、採血やその他の検査をします。1時間もかかりません。それだけです。時々、精密検査がありますが、それも、特別の場合だけです。質問はありますか」

「薬は何の薬でしょうか」
「特別、気にすることはありません。効能を言いますと、精神的な影響が出てきますので、これについては言えません。しかし、心配する必要はありません。約1年間の動物実験を重ねて、最終段階の安全なものです」

僕は不安に思ったが、これ以上聞くこともないだろうと思った。それに、この加山という女性にも興味をいだいた。

「先程のアンケートで、どうして僕に童貞などと質問したのですか」
「ふと、ひらめいたのです」
「僕は、ひらめきというのは科学的なのかわかりませんが」
「ひらめきも、科学的に解明されつつある領域の問題です。ついでに、その時、何か変わったことが起きませんでしたか」

 僕は、あの時、胸が輝いたことを思いだした。あれは、ランの涙が光ったように思えたが、考えてみるとそれは夜空の恒星が光るように自らが光るように見えた。

「僕の胸が光りました」
加山さんは、僕をしばらく見すえて言った。
「それは、ほんとうですか」
「ほんとうです」

加山さんは席を立って窓に向かって進み、中庭の大きな樹に話しかけるように「私たちの世界は不思議で満ちています。私の存在も不思議です。存在の根源は何ナノかを考えると眠れないこともあります。私やあなたをつくる細胞は、10年ですべて置き変わるといわれています。それでも、変わらない姿で、もちろん、年齢に応じた変化はありますがここに存在します。私はそれらのすべてが科学的に解明されなければならないと思っています。あなたと出会ったことは、何か、私を変えることのように感じました。それは、あんたが胸が光ると言ったときに確信になりました」と言った。

 付け加えるように加山さんは言った。
「このお薬を飲んで下さい。それから、検査室で検査を受けて下さい。今日はこれですべてが終わります」

 僕はなぜだか、頭が混乱していた。

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